葛城修験の基礎知識

役行者(えんのぎょうじゃ)とは、どのような人物?

葛城修験を開いた人物で、修験道の開祖と言われる役行者は本名を役小角(えんのおづぬ)といい、舒明天皇6年(634)に大和国葛城上郡茅原郷(現在の奈良県御所市)に生まれ、7~8世紀にかけて実在した人物とされています。役行者にまつわる伝説は数多く残されており、前鬼と後鬼という二つの鬼を弟子として自在に操り、不思議な力を駆使して、空や野山を駆け巡ったといった逸話も残っています。また、役行者は伊豆大島に配流されていたことがあり、その際にも毎晩、海上を歩いて富士山に上ったともいわれています。役行者の生涯については謎も多く、その人物像を知る手がかりは伝承によるところが大きいのですが、資料としては『続日本書紀』に多くの記述が残されているのです。役行者が葛城修験を開いた後に移った修行の地が大峯山であり、世界遺産にも登録されている霊場「吉野・大峯」は、修験者にとって葛城修験とともに最も重要な行場とされているのです。

役行者像 提供「本山修験宗総本山聖護院」

修験道独特の装束について

修験道とは山に籠って厳しい修行を行うことによって悟りを得るという日本古来の山岳宗教に、仏教や神道などが取り入れられた日本独自の宗教で、修験者の装束は険しい山へ入って行くために、便利で動きやすい現代の登山服のような機能性に加えて、仏の教えをさまざまな形で象徴するものになっています。装束を法衣、道具を法具と呼び、主なものとしては頭につける直径8㎝ほどの頭巾の頭襟(ときん)、白衣の上から着る鈴懸(すずかけ)、首から下げる結袈裟(ゆいげさ)、人々を悟りに導く智杖の錫杖(しゃくじょう)や合図などに使う法螺(ほら)、108の珠からなる最多角念珠(いらたかねんじゅ)、山岳修行において岩場を上る時などにザイルの役目を果たす貝緒(かいのお)、岩角などに座る時の道具の引敷(ひっしき)などがあります。

修験者の装束(写真は七宝龍寺のもの)

経塚や行場とはどのようなところ

役行者は葛城の峰を仏法の世界に見立てて、法華経八巻二十八品を、それぞれ経筒に入れて埋納しました。この二十八品の埋納場所が経塚と呼ばれる葛城修験の中心となる聖地であり、和歌山県の友ヶ島の序品窟に始まり、葛城の峰を西から東へと進み、第二十八品の大和川・亀の瀬に終わるとされています。これらの経塚を巡ることが葛城修験の中核を成していますが、同時に、葛城修験の道には役行者ゆかりの修行の地、つまり行場が点在しており、重要な行場については江戸時代に著された「名所図会」の中で確認することができます。現在も「名所図会」に描かれた時代と変らぬ形で多くの修験者にとって修行の地となっている場所は多く、主な行所としては、犬鳴山七宝瀧寺などがあります。七宝瀧寺では一般の人を対象にした「修験道修行一日体験」なども行っており、滝行などを通じて実際に葛城修験の奥深い世界を垣間みることができるのです。

修行の一つ、覗き

江戸時代のガイドブック『葛嶺雑記』

『葛嶺雑記』は、1850年に智航上人が葛城修験の再興を図り、聖護院宮に上奏して葛城二十八宿を踏破した記録です。江戸時代末期に大阪の和泉屋藤兵衛が出資して出版しました。関連した聖護院や七宝瀧寺に数部寄進されたものが両寺院に今も現存し、版木も聖護院に保存されています。この書物の中では、当時、多くが所在不明になっていた二十八の経塚の場所についても実地調査を行い、所在地を確定させ、行き方などについても詳細に記しているのです。現代でいうガイドブックのようなこの書物の存在が、今も修験者にとっての道標として役立っていると言えます。葛嶺雑記に記された修験の道は、多輪(山の尾根のたわんだ場所)、留(山で泊まれる場所)、宿、寺などを結ぶもので、修験道の真髄はこれらの経塚や行所をめぐる山林修行にあります。ただ、これらのルートは、現在ダイヤモンドトレイルとしてハイカーに親しまれているルートとも重なっており、徐々に歩きやすいよう整備されて来ているのです。道標や案内板も立てられるようになり、部分的には修験者以外の人がアクセスしやすい環境も整いつつあります。

葛嶺雑記(七宝龍寺所蔵)