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山伏の横顔⑤(花井淳英様) ~私が山伏になった理由~

2022年9月21日 投稿者: 葛城修験日本遺産活用推進協議会事務局

皆さんこんにちは!

本日は、連載シリーズ「山伏の横顔 ~私が山伏になった理由~」の第5弾です!

今回は、普段は花王株式会社にお勤めされている花井淳英さんにお話をお伺いします

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装束姿の花井さん

―花井さんが山伏になられたきっかけは何なのでしょうか?

私は元々京都の出身なのですが、仕事の関係で、今住んでいる和歌山に来ることになり、そのとき、「せっかく和歌山に来たんだから、何か和歌山に関係のあることをしてみたいな」と漠然と思い様々な活動を始めました。例えば熊野古道を歩いたり、「絵本の会」という和歌山の郷土の民話を取り上げて絵本にしている集まりに参加してお手伝いをしたり、職場の先輩の紹介でインドネシアダンスを習ったり、そんなことをしていました。

―好奇心がすごい旺盛だったんですね

そうですね、いろんなことをやってみたい性格なんだと思います。

そして、そういった活動をしていく中で、ある日知り合いの方から「今度熊野に関するシンポジウムがあるよ」という知らせを受けました。熊野は和歌山にとってもちろん大事な場所で、非常に興味深かったので参加することにしたのですが、そのシンポジウムの中で、後に私がお世話になることになる「熊野修験」という団体の先達の方が講演をされていました。

その講演では、修験の話だったり、今も熊野修験は毎年本拠地である青岸渡寺から吉野まで修行で歩いている、というようなことを紹介されており、一般の方もそれに参加できるという案内があったので、次の年から参加させていただき歩き始めた、というのが直接のきっかけだったと思います。

―体験と言えどそういった修行の行事に参加するのは勇気もいったかと思いますが

このシンポジウムに参加するまでは、修験や山伏というのは自分とは関係のない世界だと思っていたのですが、お話をお伺いして、そういった活動をしている人が今も実際におり、さらにその修行の中に自分自身も入ることができるということに非常に魅力を感じました。1000年以上の歴史のある修行の世界の中に自分も入れるというのは特別なことだと思いましたし、おもしろいと思いました。

―体験はどのようなものだったんですか

大峯奥駈道を4回に分けて、那智から吉野まで修行で歩くものでした。当時は、熊野修験の行者も数人しかいなかったのですが、体験の際に先輩先達から「法螺貝吹いてみるか」というようなことを言ってもらったりして、様々なことを体験させていただきながら、歩き切りました。それが1998年の話です。

―その体験修行を経て、山伏になる決断をしたのはいつ頃なのでしょうか?

どの時点でというのは難しいのですが、この1998年の体験修行が終わった後、後の私の師僧となる青岸渡寺の高木導師に、「花井さんは和歌山市から来てくれているけど、実は和歌山市にももっと古い行場があるんです。今我々は、その行場に対して点でしかお参りできていないのですが、線でつなげるようにしたいと思っています。せっかく花井さんの地元なので、熊野修験の行者を一人つけますので、何年かかってもいいのでみんなで将来熊野修験として修行で歩けるように探索してくれないでしょうか?」と頼まれました。この行場というのが、葛城修験のことだったのですが、その使命を受け、1999年から3年かけて、葛城修験の道を歩きました。最初は分からないことばかりでしたが、先輩先達と一緒に、様々な文献などを参考にしながら少しずつ歩きました。そしてある程度探索も終わり、2002年からは熊野修験としても歩き始めることになりました。現在の私のフィールドワークの中心となっている葛城修業はそうやって始まりました。

今思えば、私が何者かもよく分かっていない中で、葛城の探索を任せていただけたこと、そして高木導師は実は私が結婚した時の媒酌人をしていただいたのですが、そういった縁や結びつきを深めていく中で熊野修験の山伏になることを決断したのではないかと思っています。

―山伏としての普段の活動はどのようなことをされているのでしょうか

大きい行事が3つあります。まず那智四十八滝行です。那智山にある四十八の滝をお参りしてまわる修行です。次に大峰奥駈修行です。これは4回に分けて7日間で実施します。そして最後に葛城二十八宿修行です。1年間をかけて経塚やお寺等をまわるので、年間15日程度。昔は1泊2日で8回ほどでまわっていたのですが、今はコロナもありそれぞれ日帰りで行っています。

―平日はお仕事をされているので、活動の中心は土曜日曜になるかと思いますが、かなりの頻度ですね

そうですね。その全てに参加するわけではなく、やはり一番大事なベースは家庭生活なので、そのバランスを保ちながら修行に参加しています。

―ご家族のご理解は得られていますか

今は子供が大きくなったので、そこまでではないですが、やはり子供が小さかったときは、月1回程度の修行に参加するのも非常に悩ましかったことは覚えています。「また行くの?」と言われることもありましたし、そこはなるべく家族を優先しながら、行くときはしっかり事前に調整したうえで参加していました。何のためにいくのか、ということもしっかり説明して理解を得ないといけないので、自問自答を繰り返しながら、自分自身も納得のいく説明を探し求めていたのを覚えています。

―花井さんにとっての修験とは何なのでしょうか?

とても難しい質問ですが、私にとっては「上求菩提(じょうくぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」という言葉が一つの答えなのかなと思っています。この言葉は師僧からよく言われる言葉で、意味としては「自分が人としてより良く生きるために鍛錬を積み、その結果を社会のため、人のために還元できるように努力する」というようなことだと私は理解していますが、これが究極の目標であり、私にとっての修験だと思っています。

情報過多の現代では時としていろんなものが逆に見えなくなってしまうこともありますが、そんな時、一度自然の中に身を置き、気持ちをリセットし、改めて自分はいろんな方の支えで生きられているのだということに気付く、そういうことを考えるきっかけを自然の中でいただけるのではと思っています。

―葛城修験に関して特別な思いはありますか

修験というと滝行など荒々しい修行を想像する人が多いかもしれませんが、修験の本質とは決してそうではなく、人との繋がりの中で、自分は様々な人に支えられて生きていることを知り、その感謝の気持ちをいかに社会に還元していけるのかだと思っています。そういった意味では、この葛城修験というのは、修行の場所が人里に近いということが大きな特徴ですので、人との繋がりを意識した修行の形、例えば里の人が大事にしているものを目にしたり、訪れた際に里の方が出迎えてくれて「よく来てくれたね」とおっしゃっていただけたり、自然がすごいとかそういったことだけではなく、人との繋がりの中で生かされていることに気づかせてくれる、修験の本質に触れることができる、それが葛城修験なのかなと思います。

―山伏になってよかったことはありますか

修行の中で里を訪れたときに、地元の方から「よく来てくれたね」とおっしゃっていただけたりすると、これまで長く受け継がれてきた修験の歴史の中に自分も入れたと思え、その時やっててよかったと思いますね。その方々に自分が何を返せているかは分からないですが、自分がやりたいことに一歩近づけた瞬間なのかなと思ったりします。

―「歴史の中に入る」という言葉が印象的です

自分で言うのはおこがましいですが、長い修験の歴史の積み重ねの中に自分自身も入り、昔の人がお参りしたようにまわれたら、という思いで修行をしています。

―辛かったことはありますか

一番近くにいる家族に対して自分が何ができているのかということを考えたときに、なかなか適切な答えが見つけられないことですね。この答えはこれからも一生をかけて追い求め続けていくものだと思っています。

―最後にこれから葛城修験を体験する方にメッセージをお願いします

葛城修験は、普段社会生活を送る方々が自然とどのように関わっていくのか、ということについて教えてくれるものだと思っています。今よく言われる、エコロジーや持続可能な開発、そういったことを見通したような先人の知恵がそこにはつまっているのではないかと思います。

修験では「擬死再生(ぎしさいせい)」といいますが、山に入りいつもと違った環境に身を置き、様々なことを見つめなおす。そうすることで、自分自身や自分自身の置かれている環境などを客観視することができ、新たに気付けることがたくさんあります。修験道というものの先入観にとらわれず、最初はリフレッシュすることを目的に山を訪れてもらうだけでもいいかもしれません。そういった中で、「なぜ皆さんこのお地蔵さんを一生懸命お祀りしているのだろうか」というようなことに少しでも目を向け、何か気付いていただけるようなことがあればいいなと思っています。

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