修験の聖地-
修験道はここから始まった
大阪と和歌山の府県境を東西に走る和泉山脈、大阪と奈良の府県境に南北に聳える金剛山地――総延長112㎞に及ぶこの峰々一帯は「葛城」と呼ばれ、多くの神々が住まう山として人々に崇められておりました。
7世紀、その麓の地である現在の奈良県御所市で生まれたのが役行者(えんのぎょうじゃ)です。役行者は、修験道の開祖であると言われていますが、その役行者が最初に修行を積んだのがこの地です。
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である奈良の大峰山は、役行者が「葛城修験」を開いた後に移った修行の地であるとされており、「葛城修験」は、この大峰山とともに、修験者たちにとって最も重要な行場であり、必ず修行しなければならない地であるとされてきました。
この地には、役行者開基若しくは役行者作の仏像がある、役行者を本尊とする、または役行者の母の墓がある...等役行者にまつわるエピソードが残る寺社や祠堂が数多く存在します。
役行者は、また、この地に法華経8巻28品(品<ほん>=仏典の章や篇)を1品ずつ埋納したとも伝えられており、その法華経が納められた1~28番の経塚と滝や巨石、寺社や祠などを巡って行う修行や行場を総称し「葛城修験」と呼ばれています。
海から始まる修行の地
最初の経塚である「序品窟」は、山岳修行を行う修験道には珍しく和歌山市加太沖に浮かぶ友ヶ島4島のうちの虎島にあり、普段観光客が汽船で訪れる沖ノ島から干潮時にようやく現れる岩場を歩いて渡ります。大きな石や岩を伝い、頭をぶつけそうになりながら狭い洞窟に入って見上げると「妙法蓮華経序品第一」と彫られた背の高さほどの花崗岩の石碑が建っています。その前で修験者たちは法螺貝を吹き、香を焚き、経をあげ、傍らに碑伝(ひで)という木札を置いていきます。碑伝には入峯の年月日や名前が書かれており、今でも各地から修験者たちが修行に訪れていることがわかります。経塚とされているものには、石碑以外にも山中にひっそりと佇む小さな石祠や大人が10人は乗れそうな川中の岩など様々な場所に様々な大きさや形のものがあります。
地域の人々とつながる修行の地
経塚以外に修行を行う場には、前述の役行者ゆかりの寺社もあれば、西国三十三所の札所など当地の有名な寺社も含まれています。
また、一般的に、修験道の修行は、深い山の中で行うものですが、葛城修験の地に連なる山々はさほど高くないことから、他の修験の地に比べて集落との関わりが強く、修験者たちは地域の信仰にも深く関わってきました。
特に大阪府南西部では、生活の根幹であり、農業などに欠かせない水に対する信仰は極めて重要であり、里にもたらされる水に祈りを捧げるため、滝や雨乞いの地、水に関わる社も修験者たちの行所になりました。雨乞いの踊りが、今も岸和田市(葛城踊り)や和泉市(笹踊り)で受け継がれています。
一方、修験者たちの修行は、里人に支えられてもきました。有名なエピソードがあります。
お寺に祀られている役行者像や役行者の肖像画の両脇には、前鬼・後鬼という夫婦の鬼神がいます。この二鬼は、役行者の従者として働いておりました。役行者は二鬼に、役行者亡き後も修験者たちの修行を支えることを約束させます。
紀の川市中津川という地には、「葛城修験」において最も重要な儀式である「葛城灌頂」が行われる行所があります。江戸時代には、京都の聖護院門跡が、朝廷と幕府の両方からの依頼で、天下泰平を祈祷する護摩を焚いていた場所です。この地には、修験者たちのために行場を管理し、草を刈り、道を修繕するなどしている家がありますが、それは前鬼・後鬼の5人の子どもたち(五鬼)の子孫の家であると言われています。1300年にわたり役行者との約束を守って修験者たちの修行を支え続けているのだ、と。
また、役行者以来、修験者を宿泊させるなど修験者を迎える「迎之坊」という役割を果たしてきている和歌山市加太の向井家や、修行の休息所として利用された大阪府泉佐野市の豪農、奥家などにも関連資料が残っています。今も修験者の来訪を里人が出迎え、湯茶などによる接待を行い、共に地域の寺社に参拝する地域も少なくありません。「葛城修験」は修験者が自分たちだけで修行を行うものではなく、当地の人々の信仰や生活と密接に関わってきたのです。
修験道は、明治時代初期の廃仏毀釈や修験宗廃止令により衰退し、それとともに、修験者達をもてなす宿なども次々と廃業していきました。修験道の聖地である「葛城修験」でさえ、修験者たちが修行を行った行所や信仰の対象であった経塚なども荒れ果て、やがて、そこに至る道さえも廃れようとしていました。しかし、戦後以降、修験者たちは「葛城修験」の本格的な復興に動き出し、地域の人々と協力しながら、山々に分け入り、行所へと続く道を探し、荒れ果てた経塚を見つけ出して元の場所に戻し、再び修験道の厳しい修行を始めたのです。
葛城修験の今、そしてこれから
今も多くの修験者たちがこの「葛城修験」で修行を行っています。前述の大峰山が女人禁制の修行の地である一方、「葛城修験」は多くの女性修験者たちをも受け入れています。112kmにわたり展開する経塚や行所には、道なき道をかき分け、崖をよじ登り、沢を伝うなど過酷な条件をクリアしなければ辿り着けないところもたくさんあり、修験者たちも1日、2日ではとうてい回りきれません。
しかし、一方で、里に近かったことが功を奏し(若しくは災いとなり)、都市開発の影響を受けて行所のすぐ近くまで車の乗り入れができるところがあるなど、アクセスがよくなった箇所も存在します。
国内外の多くの旅人が行き交う空の玄関口――関西国際空港とは目と鼻の先、言うまでもなく大阪の大都市圏や外国人観光客に人気の高い京都や高野山もすぐ近くです。
また、行所への道とリンクする葛城の尾根道は、和泉山脈の近畿自然歩道や槇尾山~金剛山~二上山をつなぐダイヤモンドトレールとして整備され、美しい自然と触れあうことを求める多くのハイカーたちにも歩き継がれています。
都会のすぐ近くにありながら、都会の喧噪を離れ、修験者の求める道を歩き、行所の周りで四季折々に変化する美しい自然の中にゆっくりと身を置くこともできます。犬鳴山七宝瀧寺(泉佐野市)が主催する1日修験体験の滝行や岩場から身を乗り出す覗きなど厳しい修行の一端を体験すれば、自分自身を見つめ直し新たな人生の一歩を踏み出すきっかけにもなるでしょう。
ハイキングでこの地を訪れた時、滝の音と共に聞こえてくるのは法螺貝の響きかもしれません。ふと見ると木立の中にひっそり佇むのは、法華経が埋納された経塚なのかも知れません。すれ違うのは、鈴懸(すずかけ)を身に纏い頭巾(ときん)を戴き最多角(いらたか)念珠を手にして行所を巡る修験者なのかもしれません。
修験者や地域の人々が大切にしてきた修験道はじまりの地―「葛城修験」
修験者たちの思いとそれを受け止める地域の人々、そして葛城の自然や文化を楽しむ人々の往来が続く限り、これからも葛城修験は歴史を刻んでいくのです。